うちでは稲の苗を、畑で育てています。
畑苗代(はたなわしろ)と呼ばれています。
多くの方は、田んぼに苗代をつくって水を張った状態で育てますが、畑では基本的には雨水だけが頼りです。
畑苗代は水が少ない状態で育つので、田植えした後に根が張って活着するまでの日数が短いのです。
種籾は温度をかけて少しだけ発芽させます。
事前に平らにならした畑に発芽させた種籾を播いていきます。
振るっておいた土を被せていきます。
表面を平らにならして
乾燥や朝の低温から守るために、ビニールを被せます。
この状態でしばらく置いて、芽が出たころにビニールを外します。
田植えは5月末から6月頭くらいに
和合の田んぼの季節が始まりました。
今日は三度の共同作業所での稲作の最初の作業の籾まき。
稲の種である、種籾を育苗箱にまく仕事です。
小学校の子どもたち、先生たちも授業の一環で一緒に作業しました。
高学年の子たちは毎年の経験を重ねていて立派な作業員として働いてくれています。
低学年は籾に興味津々。
初めての農作業にも張り切って取り組んで作業がぐんぐん進みました。
暖かい日が続いたので芽出しをしていた籾の芽がもやしのように伸びていてびっくり!天候は毎年違うので毎年予想通りにいかないところが農作業の難しさであり面白さでもあります。
この籾まきが始まるといよいよ田んぼが始まると気が引き締まります。豊作になりますように。願いを込めてみんなで顔を合わせて作業をするこの時間が和合の田んぼのはじまりです。
コロナ禍が続いて学校と地域の交流が制限される中、こうした作業を通じての交流はより貴重なものとなりました。地域の方と子どもたちの大切な交流の機会が続いていきますように。
一説によると、人間と鶏の共存は紀元前数千年の太古にまで遡るそうです。
マイクロソフトのビル・ゲイツさんは、飢餓を脱却する有効策として養鶏を推奨しており、貧困地域に鶏を配ったりしているそうです。
また宗教的にも、毎日産卵する鳥として神聖視されており、神社の鳥居も鶏から由来しているそうです。
私自身、近隣の方から、鶏の完全生命体っぷりをかねてより耳にしておりました。
卵を提供し、糞は肥料となり、生ゴミを餌として消費し、卵を産まなくなった廃鶏は食肉となる。とんでもない完全無欠生命っぷりです。
これまでの人生に微塵も存在感を露わにしなかった鶏が、突如として頭をもたげ、コケコッコーと頭の中で叫びます。
私ははっとしました。
そうだ!鶏を飼おう!
そうして購入した出世鳥の第一形態ヒヨコは、この世のものとは思われぬ愛らしさでした。
黄色くふわふわと、まるで動くマシュマロのようで、絶え間なくピヨピヨとさえずっています。愛嬌という名の暴力で私の心をタコ殴りにしました。
「わかった。カワイイからもう勘弁してくれ」
私の叫びは虚空に霧散し、ヒヨコは決してそのダダ漏れの愛嬌を堰き止めようとはしませんでした。
聞くところによると、生後半年ほどで卵を産むようになるそうです。この産卵までの期間を、経験から、私はペット期と呼称することにしました。
これは決して過言ではありません。
我が家の鳥小屋は玄関脇にあります。日がな一日、出入りの度に寄ってきては餌をすがってピヨピヨと鳴きます。あまつさえ、そんな鶏たちに話し掛けることさえあります。
愛嬌の権化であるヒヨコ期を過ぎ、次第に茶色い羽が生え揃ってゆき、黒目が小さくなり、トサカが伸びてゆき、クチバシが精悍になる頃、長い長いペット期が終わり、ようやく卵を産むようになりました。
10ヶ月が過ぎていました。
私ははたと思います。
こいつらが産卵をやめたとき、私はこいつらを食肉として解体できるだろうか。
動物の解体は経験があります。シカ、イノシシ、ハクビシン、そしてなにより、近隣の養鶏屋さんから頂いた愛着のない廃鶏。
愛着のない動物ですら、その命を絶つときに躊躇いが残ります。果たしてこいつらを、果たして。
食肉の自給を決めたときに覚悟し築いた堅固な決意の壁がぐらぐらと揺れるのを感じます。
私はこの逡巡を先送りすることにしました。あとのことは、あとで考えよう。そのあたりのいい加減な人間的隙が、私の愛くるしいところです。
養鶏は皆にオススメできることではありますが、多少の覚悟を伴います。
それが、養鶏初心者の、今のところの見解です。
ニホンミツバチを飼育しています。
ここのところ昼過ぎごろに暖かいと、こうして巣箱から飛び出しています。
冬の間は、花がないので女王蜂は産卵を止めてしまいます。
新しい働きバチが誕生しないので、冬前に誕生した働きバチは、じっと活動を停止していて春を待っています。
春から夏にかけては働きバチの寿命は、1ヶ月と言われていますが、冬の間は3ヶ月ほどに延ばさないと命をつなぐことができません。
寒さの中でじっとして、活動量を最小にして春を待っているのです。
和合のこの環境に魅力を感じて住み着いた人の多くには、もっともっと山の資源を生活に取り入れたいという気持ちがあります。暖房や風呂焚きに薪を使ったり、自分で切り倒した木で小屋を建てたり、キノコを栽培したり、という具合に各々ができる事を拡げています。そして、そんな人たちが集まってでできた「和合山守」というグループがあります。
南信州元気な森林づくり表彰式のお知らせはこちら
和合小学校で今年で3度目の炭焼き体験学習が行われました
炭焼きの様子はこちら
和合小学校では親子山村留学の受け入れを行っています。
米作りや炭焼きの体験授業も充実しています。
南信州の自然豊かな学校でのびのびとした学校生活を送ってみませんか?
詳しくはこちら。
https://wagou-camera.nagano.jp/ryuugaku
今年で3度目となる和合小学校での炭焼きの授業が行われました
例年は5、6年生が担当しますが、今年は3,4,5,6年生が担当して、炭の材料の木材の運び出しから薪割りまで準備を行いました。
材料は地元の方の山から分けていただきました。
炭焼き指導も地域の方。
地域の方の協力があって成り立っています。
和合はかつては炭の産地として賑わっていました。
50年ほど前ならば、日本中の里山で暮らしの中の風景として炭焼きはあたりまえだったのでしょう。
そのころのお話も聞きながら、点火作業、赤土で隙間を埋める作業と分担してみんなで協力して作業を進めていきました。
炭焼きはけむりの匂いや色で進み具合を判断する感と経験に頼る作業。
地域の炭焼き名人に教えてもらい、何度も煙の様子を見に放課後も学校に通いました。
夜になってもなかなか煙の色が変わらず、担当の5年生はいつもの寝る時間を大幅に超えて眠い目をこすりながら炭の点検にがんばりました。
夜10時半の点検時にようやく煙が透明になり、煙突と釜口を閉めて窯を密閉しました。
炭の取り出しは一週間後。仕上がりがとても楽しみです。