変化するということ

 ここ長野県阿南町和合へ移住して、今年で28年目になる。 訪ねてくる友人たちの多くは、「自然がすぐそばにあって良いね。」と口を揃える。確かに、ここは深い森に抱かれた山間地で、すぐ足元には透き通った清流が流れている。僕が生まれ育った都会とは、対極にある風景だ。
 ふと考える。人間にとって、自然はなぜ必要なのだろうか。 食料やエネルギーの源泉であることはあたりまえ、だけどそれだけではないはずだ。 かつて森林浴がブームになった際、「フィトンチッド」という物質が注目された。樹木が自衛のために放出する化学物質が、ヒトの精神の安定や、身体へ抗菌作用をもたらすという説だ。でも、森を歩きながら「今フィトンチッドが効いているな!」と実感できる人は、そう多くないだろう。あるいは春の山菜、秋の恵みであるキノコ、渓流で釣れるアマゴ、といった直接的に食卓を豊かにしてくれるものも事欠かない。
 しかし僕らが自然から受け取っているものは、もっと感覚的で、情緒的な何かではないか。
 かつて炭焼きで栄えた和合の山には、今も豊かな広葉樹が残っている。初夏の新緑から、盛夏の深い緑、そして秋の紅葉へと、季節は彩りを変えていく。
 この3月の今の時期、朝日が昇る時間が日に日に早まり、野鳥たちのさえずりで目が覚める。あと一、二ヶ月もすれば、規則正しいドラミングを刻むキツツキや、遠くから渡ってきたアカショウビンの笛のような鳴き声が、谷間に響き渡る。
 自然がこれほどまでに多様な姿を見せてくれるのは、それが「変化し続けている」からに他ならない。自然は、立ち止まることなく移ろいゆく姿を、僕らに絶えず提示しているのだ。
 僕たち人間もまた、時間の変化からは逃れることはできない。それなのに、本能的に「安定」を求め、幸せな時間が永遠に続くことを願ってしまう。そう、進学や就職といった前向きな変化でさえ、それを目前にすると不安がよぎる。ましてや、別れや喪失といった避けられない変化は、時に僕らの心に深いダメージを与える。人が変化を受け入れられないのは、変化した先が未知の地平であることにほかならないと思う。
 移住して30年近く、それなりに歳を重ねてくると、若い頃のようにはいかない場面も増えてきた。 そんななかで最近思うのは、自然から受け取る最大の恩恵とは、「変化を乗り越えていく力」そのものではないかということだ。変わっていく環境に包まれていると、変化することが自明だと無意識の中に刷り込まれているのかもしれない。
 最初に掲載した 一枚の写真は、先月撮影した和合の川辺に立つ木だ。ここに10年前の秋に同じ風景を捉えたもう一枚の写真をおく。 季節によって装いを変えるのはもちろんだが、同じ季節、同じ木であっても、去年の姿とは決して同じではない。木は毎年少しずつ成長し、数年の時を経て見上げれば、「こんなに大きくなったか」と驚かされる。

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今日のライター:吉田 修

田畑を耕しながら、ニホンミツバチの巣箱を作って販売しています。(http://yamamitsuya.com)
ここ最近は、飯田市にある、おひさま進歩エネルギーという会社で、再エネの開発や小水力発電所の管理の仕事もしています。